「私は薬をやめたけど」という前置きに、なぜ心がざわつくのか――ADHD治療薬をめぐる投稿の心理

こんばんは。
心理カウンセラーの伊藤憲治です。

最近SNSを見ていると、こんな投稿をよく見かけます。
私が発達障害の調べ物を良くしているからなのだと思うのですが。。。


「コンサータとかアトモキセチンとか、発達障害の薬、いろいろありますよね!
私は飲むのをやめましたけど
薬っていう選択肢があること忘れないでくださいね!」

発信している方に、悪気がないことはわかっています。
むしろ、善意から出た言葉なのだと思います。

けれど、この「私は飲むのをやめましたけど」という一言に、私はいつも小さな引っかかりを感じてしまうのです。

「自分はのまなくても大丈夫だけど、あなたは飲むの?」
「自分は飲むのを辞めたけど、あまたはそれでも飲むの?」

と、暗に言われているような気持ちになることがあります。

薬を飲む、飲まないは、本来まったく自由な選択のはずです。
それなのに、この「私は薬をはやめたけど」という前置き、する必要あるのでしょうか?

この記事でわかること

  • 「薬をやめたけど」という前置きに、服薬中の人の心が揺れてしまう理由
  • 発信している側の心理と、受け取る側の心理、それぞれの構造
  • 服薬という選択に「正解」はないという視点

この投稿=「自分の選択は正しかった」と確認したい心理

結論から申し上げますと、この投稿は「自分の判断は間違っていなかった」という安心感を得るために生まれています。

心理学には「認知的不協和」という考え方があります。

人は、自分が下した決断と、心の中に残るわずかな不安が矛盾していると、強いストレスを感じます。
「薬をやめる」という大きな決断をしたあと、「本当にこれでよかったのだろうか」という不安が、無意識のうちに残っていることは珍しくありません。

その不安を打ち消すために、「やめても大丈夫だった」というメッセージを発信し、周囲からの共感や賛同を得ることで、自分の選択の正しさを、後から補強しようとしているのです。

この投稿=悪意のない「暗黙の優位性」のメッセージになりやすい

ふたつめの理由は、社会的比較という心理の働きです。

人は無意識のうちに、自分と他者を比べながら、自分の立ち位置を確認する生き物です。
「私はもう薬に頼らなくても大丈夫」という発信は、発信者にそのつもりがなくても、受け取る側には「服薬している人=まだその段階にいる人」という、暗黙の序列のメッセージとして伝わってしまうことがあるのです。

発信者の意図は、あくまで「選択肢があることを伝えたい」という善意なのです。
けれど、受け手の心理としては、その言葉が無意識の比較にすり替わってしまう。
これは、送り手と受け手の間に生まれる、静かなすれ違いなのです。

この投稿=治療における「個人差」を見落としたメッセージになりやすい

三つめは、ADHDの治療薬が持つ、大きな個人差についてです。

コンサータやアトモキセチンといった薬は、脳内の神経伝達物質への作用の仕方が異なり、効果の感じ方にも、副作用の出方にも、かなりの個人差があります。
ある人にとって「もう必要ない」と感じられた薬が、別の人にとっては、日常生活を支える大切な土台になっていることもあるのです。

「自分はやめられた」というたった一つの経験は、あくまでその人自身の結果に過ぎません。
それを一般化して発信してしまうと、意図せず「たった一つの正解」を、他の当事者に押しつけるメッセージになってしまうことがあるのです。

私自身の立場からお伝えしたいこと

ここで、私自身のことも正直にお伝えしておきたいと思います。
私は現在、コンサータを服用しています。
以前、アトモキセチンも試したことがあるのですが、私自身は、あまり効果を実感できませんでした。

だからこそ、あえてお伝えしたいのです。
薬をやめたという投稿は、たくさん見かけます。
けれど、私は今も、薬を飲み続けています。

薬を飲むか飲まないかは、それぞれの体質や状況によって決まるものであって、そこに優劣はありません。

あなたが今、服薬を続けているとしても、それは何ら間違ったことではないので安心してくださいね!

まとめ

「薬をやめたけど」という言葉の裏には、発信する側の「自分を安心させたい気持ち」と、受け取る側の「無意識に比較されているような感覚」が、静かに重なり合っていたのです。

薬を飲む人も、飲まない人も、どちらも間違っていません。
大切なのは、誰かの経験を「唯一の正解」にしてしまわないことなのです。
あなた自身の状態に合った選択を、これからも大切にしていってくださいね。

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